何も考えなくてもいい安心感。

 

 

「バカか、寝てろ」

どこで貰ってしまったのかうっかり風邪を引き、挙句今世紀初めての熱を出してしまい、店を休んだ。居酒屋が一番儲かる忘年会で忙しい時期だから絶対に見舞いになど来ないと思っていたのに、これから行くというメールを貰ってしまい、高熱で寝付けず朦朧とする頭でフラフラと部屋の片付けをしているところに、牧さんが合鍵で入ってきた。

目を合わせた開口一番、先ほどの常套文句のバカ呼ばわりである。まさかこんなに早く到着すると思っておらず、部屋の片付けなんかせずに先に身形を整えときゃ良かったと後悔するも、先に立たず。

「ごめんね、牧さん(ずびっ)」

「全くだ。バカは風邪引かないっていうのに」

しかしながら、牧さんの声を聞くとそんなことはどうでもよくなってくる。まあ熱出してたのに気付かなかった俺も悪いが、と付け足しながら文字どおり首根っこを掴まれてベッドに戻される瞬間には熱で浮かされて空回り気味の思考は落ち着き、とりあえずぼさぼさに広がった髪を撫で付けて、ずれた眼鏡を嵌めなおす。

牧さんとの付き合いはまだそう長くない、けれども牧さんの年の功か(35歳だし)、牧さんと身分が違うからか(ここは笑うところ)、もしくは牧さんの過保護症のせいか、私は無条件で牧さんに安心感を抱いている。こんな小娘の乳臭い格好など、この人は眼中にないからだ。失礼しちゃう。でもそこが牧さんの好きなところの一つでもある。

「明楽に粥作らせたから」

「あ、ありがとう、ござい、ます(ず…)」

私は牧さんが猫背を丸くしてテーブルの上に袋を置くその姿を眺めてからベッドに横になり、牧さんは私が大人しくベッドに入って首まで布団を被るのを見届けてからその縁に浅く腰掛けた。

「熱は」

「測ってない…けど下がってない(ずず…ずびっ)」

額に貼ったままの温い冷えピタを剥がす。のっそりとした動作で額に手を当てる前に牧さんの骨ばった掌が伸びてきた。

ぴたりと吸い付く掌からは、いつも鼻を軽く突くタバコの渋い匂いが当然ながら今日はしない。

「飯食って薬飲んで寝りゃ治るだろ」

「はーい、(ずずずず…)」

鼻水を啜るのも限界で、ティッシュ箱を抱き寄せ、無駄にティッシュを引き出すと盛大に鼻を噛んだ。

「……少しはじらいを持て」

「…すんません(安心しすぎたか)」

「まだあんの、冷えピタ」

「うん、冷蔵庫ん中」

牧さんはゴミとなった温い冷えピタと鼻噛みティッシュをゴミ箱に投げて冷蔵庫に向かう。なんて甲斐甲斐しい。とても優しいので、嬉しさのあまり空っぽの冷蔵庫をやはり背中を丸めて覗く牧さんに、いや、その無駄に丸くした背中に抱きつきたくなる。その衝動をぐっと抑えて、今度は布団の中で小さく控えめに鼻を噛んだ。

「店閉めたら様子見に来てやるから。いいか、ちゃんと寝てろよ」

冷えピタを貼り替えながら子をあやす親のような口調でそう言うと、一回頭を撫でてくれた。表情は変わらず強面のままだけれど、今日の言動はびっくりするほど優しい。来たときと同じように制服の上にダウンを羽織ると、もう一度私の頭を撫でて玄関に向かう。

「牧さん、」

「あ?」

「よいお年を」

「アホ。とっとと寝なさい」

初詣行くんだろ。

そう振り返った牧さんの顔は怖い営業スマイルではなく。普通に少し笑って、これまた珍しく小さく指を動かすだけの手振りをして扉の向こうに消えた。

ああ、新年にはきっと雪ではなく槍が降るわ、なんて。

ガチャンと鍵の落ちる音を聞いてから眼を瞑ると、今まで熱でうなされていたのが嘘のように、すとんと私は眠りについた。

 

 

@090107

お題「来年も一緒にいようよ」2作目from Abandon 

 

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