スローエモーション

 

コーヒーを無理矢理喉に流し込んで休憩を終えて整備に戻ると、ケルディムの前でふわりと柔らかな栗色の髪が揺れていた。

「ッ、ぉ……ん…、」

まるで嗚咽のようを洩らすように、声にならない声が空気を震わす。

………………、ロックオン…

喉の深く奥で、それでも小さく小さく搾り出すようにあの人の、彼の、名前を呼んだ。深緑色の制服に身を包んだ彼が振り返る。あの人とは全く違う眼差しで、いやあの人は誰にでも優しい人だったから私だけの特別な眼差しというのもそんなになかったけれど、私を見ると朗らかに微笑んだ。

「よお、お疲れさん」

彼の深い緑の瞳が私を捉える。

、あんた顔色悪いぜ。ちゃんと休んでんのか?」

あの人と同じ声が私を呼ぶ。

時にはまるで薄いガラス細工を扱うように静かに唇の先に乗せられながら呼んで貰えたこともあった私の名前は、けれども彼の口からは、文字通り聞こえなかった。私が、あの人と同じ彼の名前を呼べないように、彼の私の名を呼ぶ声は耳に一切入ってこないのだ。恐ろしいほど、胸にぽっかりと穴が大きく開くような感覚を肌で感じている。感じる度に耳に僅かに残しているあの人の声が、名を優しく呼んでくれていた声が無くなっていっているようだった。

「平気。実はミッション中はこっそり寝てるから」

「本当かよ。全く、頼むぜ?あんたが倒れたらどうしようもないんだからな」

「わかってますー、それくらい」

口の端で冗談めいた小さな笑顔を繕う。彼は彼だ、あの人ではないんだと、身体に言い聞かせると大分自然に笑えるようになった。でも、どうしても自身そのものにはどれだけ言い聞かせても、その強制を頑なに拒んでしまう。それはとても単純なことだ。目の前にいるのに、彼は彼であの人でないという事実がどうしても信じられなかった。それだけだった。名前が聞こえなくても、彼の気配はいくらでも察することは出来た。いくら非戦闘員とは言えども、そこまで鈍いわけじゃない。それ以上に彼が私に気を遣ってくれていたことは、この症状が少しでも改善されるのではないのかと彼が自分の本名を教えてくれたことでも、容易に知れた。そういうことが分かってしまうと、それを同時にとても申し訳なくて、そして彼とあの人を重ねている自分を酷く恥じた。恥で死ねるのならば、私はもう何万回と死んでいる筈だ。もうこの艦内で、彼の姿をあの人と重ねているのは、あの人に拘っているのは、私しかいなかった。彼は自分が必ずどこかであの人と比べられてしまうだろうとわかっていながら、それでも自分を確立しているのに。 彼の私の名を呼ぶ声が聞こえないのは、そんな彼を目の辺りにしながら、いつまでも彼があの人ではないことを認めたくないという頑なな私への当然の罰だ。

「もしかしてアニュー、探してる?」

「あ、ああ…」

「食堂行ってみたら。イアンさんと入れ替わりで休憩取ってる筈だから」

彼はほんの一瞬だけ少しバツの悪そうな顔をしたがサンキュと返してくれてコンテナを出て行く。その後ろ姿をしっかりと見送ってから、そっとケルディムの右腕の傍に寄った。あとはこの子の最後のチューニングだけだ。ぺたりと装甲に触れる、無機質特有の冷たさが指先から伝わって、喉の奥でつっかえたまま熱く燻る彼とあの人の名前を意識の向こうへと押しやってくれた。同時に、その重みに釣られるように、気道の深い、それこそ肺の空ろを感じるほど深いどこかで、すとんと大切な何かが抜け落ちたのを感じた。また一つ、あの人の声の記憶がなくなった気がする。

 

 

 

「……………………

 

 

そうして、彼は私の名を呼ばなくなった。

 

 (終@090222)

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