その睫の先を

教えて。

 

 

夏目君の睫は長い。

クラスメイトとして過ごして季節が一巡りしようとしているのに、一緒に日直をした今日、初めて気がついた。

いや、日直で席に向かいあって座っているから、初めて気がついたと言ったほうが正しいか。

日誌を書くために伏せられた瞳を守る、その睫の影が薄く下瞼に落ちている。縦に連なる細い影達は小さな檻のようだ。

その檻に囚われたように、私の視線は夏目君から離れることなく、ぐるりと彼の姿を巡った。

他にも気がついたことがある。

地毛らしいその薄い色素の髪の毛一本一本は、光に透けると実り豊かな稲穂のように光ること。

日に焼けると真っ赤になるらしい肌は、まるで雪のように曇りなく白いこと。

少しばかり骨ばっている細い指は小さな傷が多くあって、書き出される文字は華奢な夏目君のように線が細く、でもどこか芯が真っ直ぐしていること。

こんなに近づいている機会を使って男の子を観察するなんて、私は、まるで恋をしている乙女のようだ。

「連絡事項って、他に何かあったっけ」

「ううん、特に。あ、金曜日までに英作文の課題提出、ぐらいかな」

「ん、わかった」

一瞬ばかり夏目君の顔が上がって視線かち合いそうになったのを、寸でのところで思わず視線を流してそれを避ける。

なんで、避けたんだろう。まぁいいや。バレて、いなければ。

視線は檻を摺り抜けて窓の外を流れる。

冬の高い薄紫の空を平べったい雲が細く幾重にも重なって漂っている。そんな雲の形がはっきりと見えていて、それがゆえに外はとても寒そうに感じられた。

、あと宜しく」

「あ、うん」

夏目君の字が並んだ日誌を机の上で回されて渡される。私があと書くところと言えば、いわゆる日直の感想の部分だ。何も書くことがないので大抵作文になる。

無難な文章を捻出しつつ手を動かす。これが終わればようやく日直の仕事から解放される。

「…綺麗だな」

カリカリと音を立てて筆圧の濃い文字が日誌の記入欄を埋めていくのに合わせて、夏目君が呟いた。

「え、何が」

「あ…いや、その…」

顔を上げると今度は夏目君が窓の外に向けて視線を投げていた。

確かに夕暮れの空の色は美しい。でも夏目君の睫の先はどこか遠い何かを見ている。その何かは私には分からず、じっと目を凝らすと、彼は自分が呟いたことに気がついていなかったらしく、私が反応したことに少しばつの悪そうな表情で小さく微笑んだ。

「ごめん、独り言」

檻の中に少しだけ憂いの色が宿る。そして私の見返す視線はあまりにも不躾だったのだろう、避けるように小さな檻はほんの一瞬だけ盾になった。

夏目君に拒絶されたショックと、私の視線が動いていた先を気付かれたショックと、それを上回る二重の恥ずかしさで、椅子を蹴って教室を飛び出たい衝動に駆られる。

物理的に近づいているからといって、何もかもが近づいているわけではないのだ。当たり前だが、その当たり前のことを忘れていた自分が恨めしい。

早く日誌を書き終わらせよう。そうだ、早くこの作文を終わらせて夏目君にさようならを言おう。いや、そもそも待っていてもらう必要はないのか。

「夏目君、先に帰っていいよ。まだちょっと掛かりそうだし」

「掛かりそうってこの欄を埋めるだけだろ」

「まあ、そうなんだけど」

「だったら待つよ。それに、帰る方向同じじゃなかったっけ」

夏目君の何とない質問に手が止まる。確かに学校から夏目君の家と私の家に続く道は同じところを通る。それを知ってはいたけれど、今まで一度も朝も夕方も一緒になったことはなかった。

「うん、」

「ならなおさらだ。一緒に帰ろう」

冷えた空気の中に、夏目君のずっと大人びた声が凛と透る。

檻が開かれて、夏目君長い睫が真っ直ぐ私に向けられる。断る理由なんて、どこにもなかった。彼の睫の先に乗った言葉に絡め取られそうになりながら、ゆっくりと瞬きを返して小さく頷いた。

やっぱり私は、恋している乙女のようだ。

 

 

(終@090201)

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